昭和53年10月1日 朝の御理解 中村良一
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
いよいよ、えー、お徳を頂く、御徳を受ける。えー、人間の幸福の条件というものは、このお徳を受けなければ条件は足ろわない。お金さえあれば、健康でさえあれば、家庭が円満でさえあれば、それだけで、人間は幸福になるというのではない。どうぞ、氏子信心して、おかげを受けてくれよと仰るのは、信心して、お徳を受けて、人間の幸福の条件の全てが足ろうてくる。日々が、有難し、勿体無しの信心生活が出来るようになるという事を、おー、神様は願っておられ、その願いが、金光大神への神頼みという事になり。金光大神の、「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておく」と、こういう事になったわけです。ね。尽きぬおかげと言うのが素晴らしい。これは、御徳を受けなければ出来ません。ね。いついつまでも、親の代、子の代と、子々孫々に尽きぬおかげの頂けれる信心。それは、御徳を受けるという事です。
六十一節というのは、私は、六というのは、ここでは、徳と言われますから、ね。徳を、いよいよ、頂いた上にも頂いていく。六にプラスすることの、その第一歩というのは、どういう事か、六十一というのは、ね。これは、んー、神様の一番お喜びくださる、いうならば、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ。それが、神になるのぞと言ってられますね。ために、先ず、自分がおかげを受けなきゃならんのです。人に伝えていくためには。ほんならその、おかげとは、どういうおかげかというと、もちろん、形に表れる、いうなら、ご利益というても良いでしょうけれども、そのご利益と同時に、信心による喜び。有難いというもの。ね。だから、信心の喜びを、人に伝えてゆく、ね。そして、その信心の喜びには、かく、こういうおかげが伴うて参りますよと言うお話。それを人へ伝えてゆく、ね。信心の喜び。
信心の喜びには、おかげが伴う。だから、信心は有難うなり、楽しゅうなり、しかも、段々、信心を進めていく事によって、それが、愉快なとまで思われる、日々、信心生活が、それこそ、リズムカルな信心生活が出来るわけ。天地のリズムを聞き続けながらの日々である。ね。そういう喜びが、そのまま、なら、あの世にも続いていくのですから。この世で、その信心の、いうなら、要のところを頂いて、それを、段々、末広にこう広がっていくというおかげを受けていくことのための、その第一は、何というても、信心、そして信心の喜び、そして信心の喜びによるところのおかげ。それを、人へ伝えていくのが、ね。真の信心を語っていく、伝えていくという事。そして、真の信心をさせるという事が、神様への、第一のお礼であると同時に、それが神になるのぞと仰る。一人助ければ、一人の神。十人助ければ十人の神と仰る。ね。
昨日は、んー、月末御礼会でございましたけれども、今度、中近畿の三日間にわたる、うー、信心研修。そして最後に、公開講演と。その模様が全部、このスライドにして撮ってありました。写真が撮ってございましたから、それを昨日は、ここで、そこいっぱいのね、この障子二枚にするような大きなスクリーンで、それを、音楽がずーっと流れる、音楽が入って、そして、説明が、ずーっと付いておるのを、ちょうど、四十分間に渡って見せていただいた。夕べの、だから、信心研修は、出来ませんでしたけれども、また新に、改めて、えー、今度の、中近畿のことは、本当に神様の願いが、このようにして成就していっておるんだなという事を、それこそ、おー、向こうの責任の先生が挨拶しておられますが、本当に、金光教の流れが変わるだろうというほどしの内容を持った研修であり、えー、講演でございました。私も、やはり、そんな、あー、一つの意気込みというか、ね。本当にあの、おー、神様にお使い回しを頂いておる様子を、一番初日から、三日目の、最後までの、まあ、感動、感激の中に、その終わった三日間を、改めて見せていただきました。
なかに、泉尾の先生と、末永先生の問答のところが、ちょうど、んー、入れてございました。それに、泉尾の先生が、合楽の先生は、もうこう、完成された、成就、一切を成就された、そういう方だよという話に対して、末永先生が言ってるんです。「いいえ、合楽の先生は、もう、日に日にが、もう日進月歩です。」ね。もう、これで良いなんては、いっちょん思っておられません。もう、日々が、いうならば、日々、年々、歳々、合楽が繁盛の一途を辿っているのは、家の親先生の、その日進月歩の信心からが、それを物語ってるのですと言う意味の事を話しておるところが出てくるんです。ね。それを、例えばほんなら、今日の御理解で、私共が、んー、頂かせてもらうとです。結局、私自身が、ね。神様から頂く、そのお話と、私の信心体験と、私の信心の喜びを、みんなにこうやって聞いていただくわけです。そして、そのなかから、おかげを受ける人が出てくる。いうなら、真の信心を、いよいよ求めて見えられる、ね。昨日の御理解にも申しましたように、それこそ、おー、今度の公開講演は、南は鹿児島、北は北海道、全国から、百名の有望な成年教師ばかりを集めての、おー、研修でしたから。もう、毎日、その時におかげを頂いた先生方から、お礼の手紙やら、これからの信心指導のことについてお願いがあります。昨日も、北海道の札幌から、あー、是非、こちらに、しばらく修行させてくれないかという、ご依頼の手紙があっておりますようにです。本当のものを求めての信心。そこにほんなら、私が、今思う本当。また、今日の本当は明日も、明後日も同じという事ではない。日進月歩ですから。ね。合楽理念が出来た。完璧の域に入ったというても、それが完璧という事ではない。この道をいきゃ、大丈夫だという、いうならば、事だけであって、ね。それが、広がっていくことのために、それを、辿らせていただくためには、まあだ、限りがない。ね。そこん所を、教祖様はね、尽きぬおかげがと言っておられるところですね。尽きぬおかげを話にして残しておくとこう。皆さんに、こうやって、毎朝聞いていただくお話は、尽きぬおかげの頂けれる、その元になるものなんです。ね。
教祖様の御教えの中に、ね。「日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら、元日と思うて」と、こう仰る。ね。ですから、今日は、いうなら、十月の一日、ね。だから、やはりです、ね。月の初めとしての心構え。今月こそはと言った様な信心が、眼目にならなきゃいけない。ほんなら、合楽で、十月という月は、どういう月か。今月こそはという事になる。そこにです、言うならば、自分がおかげを頂いた、その信心の喜びを人に伝えて、十月の十六日は、秋の御大祭、教祖大祭です。ね。示現活動させていただく、最も素晴らしい、言うなら、チャンスの月だ。ね。今月こそは、ね。普通は出来ん、今月こそは、ね。一人でも二人でも、真の信心される方達を願っておられる、求めておられる方達に、お話を伝えて信心をさせる。させていただく、そういう御用にお使いくださいという願いが、今日、今朝から持たれなければいけないと思う。ね。元旦と思うて、ね。そういう、私は、頂き方が、六十一節だと思う。いよいよ、徳を受けていく第一歩だと思うんです。今月は、いうならば、大祭月でもございます。ですから、いよいよ、おかげを頂きたい。そして、自分の周囲にも、信心の喜びを分って貰い。信心をしなければ頂けないおかげを頂いてもらい。自分の周辺に、そういう人は沢山あるだろう。なかなか迷妄な、頑固な人達が多いですから、そういう、いうならば、迷いに迷っておる人達に、本当な信心の眼を開かせていただく、いうならば、チャンスの月である。そういう、いわば、今日は、十月のという事である。同時に、ほんなら、御本部参拝、もう御本部参拝は、ここでは締め切ってございますから、仕方がないと致しましても、ね。そういう、いうならば、合楽にとっても、教団にとっても、大変、十月という月は、昔から、ね。御礼月とも言われております。ですから、何を持って御礼にするかというとです。ね。人間が、ね。真の人を目指し、真の信心を頂いて、そして、真のおかげ、人間の本当の幸福を頂かせてもらう。この世だけではない、あの世にも持っていけるというほどしの、御徳を受けていくことのためにです。この六十一節。六、ね。頂いておるお徳の上に、また、もう一段とお徳を受けてゆく。そういう今日は、第一日目であり、第一歩であるという、ね。どんな事があっても、この十月の月には、何人かの人を、いうならば、自分の頂いておる喜びと、おかげを頂いておる事実を、ね。人に話して、ね。それを、いうならば、神様へのお礼にさせていただこうというような念願が燃えてくる。そこに、私は、お徳が受けられる。いわゆる、神になるのぞと仰る。ね。また、神へのお礼ぞと仰る。お礼月と言われる十月が、そういう意味にて、お礼月になったら、素晴らしい事になるだろうと思います。ね。
お互いの信心が、日進月歩で進んでいくという事は、ね。それに伴うて、おかげも付いてくるのである。そして、私は、いよいよ、御徳を受けていくのだと、まあ、改めて、今日の御理解を頂いて思うんです。神様から頂いておることを、私の体験を、ね。しかも、日々、人が助かって下さる事のために、こうやって御用させて頂いておる。もう、これで良いという、もう、まあその、泉尾の先生に言わせると、もう、出来上がった人だというふうに言われたそうですけれども、ね。それに対して、末永先生が言っておるように、「いいや、合楽の先生は、もう、日に日にがさら。もう日進月歩の人です」と、説明をしておりますようなです、ね。まだ、限りなくお徳が受けていけれる。その第一歩、第一日というような、この十月一日を頂いたら、どういう事でしょうか。ね。おかげを受ける、御徳を受ける。
おかげを受けてもね、その、神より上になるとは思うなという事。ね。いうならば、もう、私はこれで出来た。もう、私はこれで良いと思う心は、もう、神よりも上になったようなものじゃないでしょうか。ね。限りがない、生神金光大神の信心、いわゆる、生神金光大神のご神格、ご心境とでも言いますかね、そういう、心の状態を、いよいよ、願わせて貰う。日進月歩で、改まっていき、進めていくと言う信心には、ね。神より上になるというような、大それた心は起こってまいりません。ね。もう、これで良いというような心こそが、私は、もう、神より上になったと言うのと同じような事ではないかと思うのです。ね。しかもその、進めていくという事は、ね。神様に喜んでいただく信心、ね。神様へのお礼の信心、ね。一人助ければ一人の神。ね。それを、十人も、百人もの人達が助かっていくことのために、私共の、生き甲斐がかけられるというようなことにもなるなら、どういう素晴しい事だろう。
昨日、石川のお婆ちゃんが、お届けをしておられましたが、そういう、本当に、自分の周辺に、沢山な人が助かっていくということの御用の事を願っておられたら、天井に、大きな石を落としたような、「先生、ああいうおイサミというのがあるでしょうか」と言うて、あの、お届けがありました。もう、本当に、天井にね、大きな石を、バーンと落としたようなおイサミを頂かれたという事です。いかに、神様が、自分の周辺に助かっていくという人達が、少しでも多く出来て行くことを願うという事は、そのように神様を、生き生きとさせるんです。神様の心が、生き生きと喜びに満ちてこられるです。ね。そういう、生き生きとしたものに触れていかなければ、本当にの信心の喜び、または楽しみ、または愉快にまでなるという事にはならんと思うですよね。どうぞ。